貧民街は見つからなかった。情報もなし。
日没まで歩いてクタクタになって、目に付いた旅行者用の安いホテルを取る。物珍しいタタミ敷きの部屋。驚いたことに、蛇口を捻ると水が出てきた。
リンカーン「水は豊富らしいな。けっこうなこった」
プリンセス「あう!」
リンカーン「せっかくだ。風呂でも沸かすか」
プリンセス「おー」
プリンセスは感嘆し、瞳を輝かせた。思えば風呂なんざ数年入ってねえ。ムショ入りするまでは、シャワーにありつくことさえ稀な生活だった。
気の利いたことに、バスタブには専用のヒーターがついている。風呂の湯はすぐに沸いた。
さて。
リンカーン「俺が最初に入る。おめえはあとだ」
プリンセス「あう」
こいつ、月のもんが来てんだよな。あとに入って血まみれの湯を寄越されたんじゃたまらねえ。
プリンセスは従順に頷いた。俺はさっさと部屋を出て、狭い脱衣所で風呂支度をする。久しぶりの風呂。今まで水を贅沢に使う機会に恵まれなかったので、けっこう楽しみだ。
ジャケットを脱ぎ、シャツを脱ぐ。そこで堂々と入ってきたプリンセスがボロ布を脱ぎ去り、あっという間に全裸になった。
リンカーン「……おい」
プリンセス「あう」
ニコニコしていやがる。そのか細い足の間を見る。見たところ、もう血は出ていないようだ。
リンカーン「ちゃんとケツ洗えよ」
プリンセス「あう!」
リンカーン「しかし、せめえな」
プリンセス「うー」
穏やかな気持ちだった。手元に武器はなく、確実に監視の目があるというのに。今までこんな気持ちになったことがないので、俺は少し戸惑っていた。
……今は風呂だな。
湯気。白い視界に、安物の石鹸の匂い。
湯船につかったプリンセスがゴキゲンに歌っている。よくわからない鼻歌だ。俺もガキの頃はいつも、よくわからない歌を歌っていた気がする。
目の前の曇った鏡。手で拭うと、人相の悪い男の顔が現れた。
俺の顔だ。
二つの目を縦に切り裂くように、深い切傷が二本ある。
「イレブンゴースト」の名前の由来。この傷がつけられた時のことを、俺は一瞬たりとも忘れたことはない。
いつの間にか歌うのをやめたプリンセスが、バスタブの縁にもたれて俺の横顔を見つめていた。
その顔に疑問符が浮かんでいる。俺はそっちを向いて、ニカッと笑ってやった。
リンカーン「しかしハッピーな国だよなぁ、おい」
プリンセス「う?」
リンカーン「おキレイな建前を本当に実行しちまう正義の味方。戦争は自衛で、来るもの拒まず。美しい町並みに、長い歴史と伝統!そしてかわいらしい平和主義のおヒメさま……クッ、クックック……!」
プリンセス「あう……」
リンカーン「なぁプリンセス、この国は俺らみたいなクズをどこに押し込めていやがるんだろうなあ?」
プリンセス「あう」
俺にはわかってる。寛容と慈悲。そこに隠れる打算こそが最も信用ならないものだ。
傷が疼く。火のように熱く、まるで斬られた時のように。
これは信じていた仲間に裏切られ、殺されかけた時につけられた傷。指でなぞる。一度。二度。
湯を割る音。プリンセスがバスタブから腰を上げたらしい。
プリンセス「……」
何をするかと思えば俺の背後に回り、背中をべたべたと触り始めた。
違う。ほおずりをしている。俺の背中の刺青の場所。窮した鼠が猫を噛む構図。
懐かしむように、プリンセスは俺の刺青に柔らかい頬を擦りつける。触れた場所がじわりと熱を持つ。
リンカーン「……覚えているか、プリンセス」
プリンセス「……あう」
リンカーン「約束だ。俺たちはただ一人の仲間であること……」
プリンセス「……」
リンカーン「そのために、テメエ以外は信じねえ。お互いさえも決して信じねえ。そうだったよな?」
プリンセス「あう」
リンカーン「……忘れるんじゃねえぞ……なぁ……プリンセス……」
そうだ。
俺たちは追い詰められたドブネズミ。
猫を噛むのは生きるため。
信じない。何も信じない。信じたヤツはバカを見るのがこの世界だ。
自分以外は、信じない。
信じない。
神様なんていやしねえ。
二人でそう決めた。
それだけが、たった一つの約束だった。
やがて、プリンセスは俺の背中に浅いキスを始めた。
されるがまま、俺はしばらく黙っていた。
風呂上り、用意されていた奇妙なガウンを着る。ユカタというらしい。二人とも揃いのガラだった。
窓を開けると涼しい風が入ってきた。奇妙な虫が鳴いている。この喧騒は嫌いではなかった。虫どもの必死さが面白い。
プリンセス「あう!」
リンカーン「ああ、悪くはねえな」
プリンセス「あうあう」
リンカーン「……ん?」
プリンセスが顔を寄せて来た。ジェスチャーで示す。窓の外。林の向こう?
椅子に腰掛けてブランデーを呷るフリをして、ゆっくりと視線をやる。俺もプリンセスも夜目が利く。なるほど、木立の影に人がいた。あれが監視か。
リンカーン「よくやった」
プリンセス「あう」
リンカーン「まあ、一杯やれよ」
プリンセス「うー」
ブランデーを差し出すと、プリンセスはあからさまに嫌そうな顔をした。子供が野菜を嫌がるようで、思わず笑っちまう。
リンカーン「ハハッ、そう嫌がるなよ。飲んでりゃわかるようになる」
プリンセス「うぅー」
渋々、といった様子で杯を差し出す。そこに舐める程度に僅かな量を注いでやる。俺は瓶を掲げて、プリンセスは苦々しい顔で杯を掲げた。
リンカーン「何がいい? そうだ、俺たちの輝かしい人生に!なんてどうだ!」
プリンセスは腹を抱えて笑い転げた。傾いた杯からブランデーが零れ落ちる。
おい、今捨てやがったな。なんて姑息な野郎だ。
そう思ったが言わずにおいた。俺の瓶と、空の杯が軽くぶつかり音を立てる。
リンカーン「乾杯!」
プリンセス「あうあう!」
グイっと。一気に飲み干す。
慣れ親しんだ粗悪なアルコールの味がした。
プリンセスは一生懸命に酒を飲むフリをしていた。
その額を、人差し指でちょんと小突いた。
(続く)
- 2011/09/16(金) 06:05:19|
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